「人が好きなんで。お客さんが喜んでくれる顔を見ること、食べて美味しいって言ってくれることが何よりもうれしい」
栃木県栃木市大平町で地域の人々に愛され続けている老舗の飲食店『そば割烹 嵯峨野』。地元の家族連れやサラリーマンなど幅広い年齢層で連日にぎわう人気店だ。料理を担当するのは代表を務める同店二代目の富田充展さん。蕎麦を担当する創業者の父・明利さんと共に厨房に立ち、寿司や肉料理にいたるまで数々のこだわりのメニューを提供している。その創意工夫に溢れたアイディアメニューはどのようにして生まれるのか?人気店になるための苦労や仕事・お客さんへの想いを熱く語ってくれた。
郡山での修業を経て二代目に
――料理人を志したきっかけは?
「最初はなんとなくでした。実家がこういう商売をやっていたから『やってみようかな』という軽い気持ちから」
――自然な流れで。
「そうですね。料理は嫌いではなかったので」
――創業何年ですか?
「今年(取材時は2021年)で35年です。父親が30年やって、私が継いで5年目です」
――修業はどちらで?
「福島県郡山市の『料亭 辰柳』。東京に行きたかったのですが、親が『お前はヤンチャだから』東京は駄目だと(笑)」
――修業は厳しかったですか?
「厳しかったですね。向こうでは17歳から2年ぐらい勤務しました」
――料亭の修業はどんな感じなのですか?
「結構〝ガチ〟でした」
――見て盗め的な。
「そうですね。まず最初に衝撃を受けたのが給料です。朝7時から夜10時ぐらいまで働いて日曜日だけが休みなのですが、初任給がひと月4万円だったんですよ。借りていたアパートの家賃が6万円。最初の月から赤字で家賃すら払えない」
――次の月からは上げてもらえたのですか?
「そのうち給料が6万円になったので家賃は払えるようになりました。食事はまかないが出るのでなんとかやりくりして」
――余計なことはできない。
「でも、そのときツイていて、近くのパチンコ屋さんになけなしのお金で行ったら勝ってしまって。板前仲間の上の人たちもパチンコが好きで、みんな給料もそんなにもらっていなかったんです。私が1番年下だったのですが、その人たちにお金を貸したり、うまいことやっていましたね」
――年齢の近い先輩も。
「3つとか5つ上とか。みんな高校や専門学校に行ってからお店に飛び込むのでしょうが、私は若いうちに入ったので」
――その後は地元に。
「こっちに帰ってきてずっとこの店です。二十歳ぐらいで入りました。結婚も同じ時期だったので、『真面目にやらなければいけないな』と思って店を継ぐ決心をしました。25歳のときには親爺から『宴会の料理とかやっていいよ』と料理を任されました」
――お店を任されたときの気持ちは?
「うれしかったですね。うれしくてうれしくて、楽しかったです。プレッシャーは全然感じないタイプなので」
水害、コロナ禍…順調だった時期に迎えた試練
売り上げも少しずつ伸び始め、店舗拡大のためのリフォームも完成間近だった2019年10月、台風19号直撃による水害、そしてその後コロナ禍による影響を受けることになる
その苦境をどのようにして乗り越えてきたのか
――台風19号のときはこの一帯が被害を受けました。
「この店を継いでから2〜3年後でした。世代交代するときに、店舗は受け継ぎましたがそれまでの売り上げは引き継がなかったので、収入面に関してはゼロベースでのスタート。なんとか営業を続けて少しずつ資金も貯まってきたので店舗を拡大しようと建物リフォームを決断しました。しかしそのタイミングでの台風被害で、しかも翌月からは建物のローンも始まる。『これはまずいぞ』と。お金の心配はかなりしました」
――その後、営業を再開して。
「11月には営業再開しました。急ピッチで使えるものはなんでも使って」
――しかし、まもなくコロナ禍に。
「2020年の3月ぐらいまでは何もなかったんですよ。『うちはコロナあまり関係ないな』と思っていて。でもある日を境に、電話が鳴るたびに宴会がキャンセルになっていって…」
――4月に国が動き出して。
「自粛が始まって、GWのときにテイクアウトを本格的に始めました。2020年の5月はテイクアウトの需要が1番ありました」
――地域の皆さんが気にしてくれて。
「そうですね。みなさんに助けられました」
――テイクアウトのメニューはお寿司とか、おそばも冷たいものであれば。
「生のそばを自宅で茹でて、つゆも一緒に持って帰っていただいて、自宅でも美味しく食べてもらえる工夫をしました」
地元住民に愛される飲食店の矜持
――お店のメニューも豊富で種類もいろいろありますよね。
「いろんなお店に食べに行きます。銀座の高級店などにも勉強だと思って行くようにしています。そこで食べたものを次の日に自分でつくってみるのが好きなんです。『こんな感じでつくっていただろうな』と。カレー屋さんのインドカレーだったら『このカレーはこうだよな』とか、中華料理屋さんに行ったら食べたことのない料理をたくさん食べるので、『絶対これが入っているだろうな』とかやりながら答え合わせをして『やっぱりそうだよな』とか『これが足りないな』とか考えるんです」
――メニューにも反映させて。
「宴会などは常連さんが多いので、毎回同じ料理では飽きられてしまう。変化球ではないですが、そういうメニューも入れておかないといけない。かといって、『もう一回あれつくって』と言われても『なんだったっけ』となることもあるんですが。その日の気温が暖かかったり寒かったり、そのときの感覚で決めて勝手につくっているものが多いので。あとは、常連さんが残していったものを見て『この人はこの料理があまり好きではないんだな』と記憶しておいて、次回は違うものを用意したり」
ーー常連さんが多い。
「いつも来てくれる方々も結構いらっしゃいます。カウンターに座って『お任せで』って、料理はこっちで考えて出したりするお客さんもいます。そういう常連さんにも楽しんでもらえるように、料理の勉強はずっと続けていかないといけないですね」
――料理のジャンルも幅広いですよね。
「お子さんからお年寄りまでが来られるお店を目指しています」
――やはりファミリー層が多い。
「そうですね。日曜日は特に家族連れが多いです。(隣接するショッピングセンター「カインズモール大平」での)買い物の前に『ご飯食べてから行こうか』とか」
――思い入れが強いメニューは?
「おせちですかね。毎年つくっているのですが、これが結構大変で。全部見よう見まねでやったので。郡山にいたときにもつくっていたのですが、その頃は17、18だったのでおいしさが良く分からなかった。今は分かるんですけどね。当時、親方に『これを書いておけ』と教えてもらってメモっていたノートがあったんです。それを後で思い出してパッと開いたのはいいけど、字が汚くて何が書いてあるか分からない(笑)。その時は大して興味がなかったのでしょうね。おせちは10年ぐらい前からつくり始めたのですが、その頃はGoogleも cookpadもなかった。本屋さんに行って本を買って、試行錯誤しながらつくりました」
――年越しそばもありますよね。
「年越しそばとのセットで売り出して。大晦日からお正月までずっとそれで楽しめるように。29〜30日は徹夜です。少し仮眠だけ取ってやっています」
――仕事の醍醐味は?
「『おいしかったよ』、『今日も来ちゃったよ』と言っていただけるとすごくうれしいし、遠方からわざわざ来てくださるお客さんも結構います。やっぱり人の顔を見られるのがうれしいですね。私自身人が好きで、誰かと会ったり集まったり何かを一緒にやったりするのが好きなので」
――今後イメージしている将来像は?
「目指すところは、品質の向上。品数もだんだん減らしていって、店の規模も小さくしても良いと思っています。質を上げるために。父は最初、ステーキ屋をやろうとしていたらしいんです。でも、35年前に今後は高齢化が進むだろうということでお年寄りが好きな蕎麦屋をやったほうが息が長いなと。時代の流れを読んで。これからは人材を確保するのも大変になる。ならば、少しずつ小さくして質を上げていこうと思っています」
店名の由来は京都の地をイメージしたものだという。蕎麦店として出発した創業者・明利さんの〝作戦〟は成功したと言えるだろう。そして将来的には、規模を小さくしながら「質を上げる」考えだという富田さんには、蕎麦づくりのノウハウだけでなく発想のDNAも受け継がれている。親子の妙。コロナ禍でキャンセルの連絡を受ける日々は苦しかったに違いない。それでも、「嵯峨野」というお店は地域の人々にとって欠かせない場所であることは変わらなかった。それは料理への強いこだわりと、時代を読み解く力を持つ富田さんだからこそできたことだと感じた。取材時、平日のランチタイムも店内は多くのお客さんで賑わっていた。丁寧につくられた料理に舌鼓を打ち、癒され、くつろぎに何度でも足を運びたくなる空間がそこにはあった。
そば割烹 嵯峨野
栃木市大平町下皆川850-2
0282-43-4659
月曜定休
【昼の部】11:30~14:00 【夜の部】17:00~21:30