「俺の体験を話したら、ドラマみたいって言ったら大袈裟だけど、面白いと思うよ」
栃木県小山市のサッカークラブ「FC CASA」で総監督を務める田中真二さん。のちに浦和レッドダイヤモンズの本拠地となる埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身で、日本代表としてW杯・オリンピック予選を戦った経歴を持つ元Jリーガーだ。幼少期に育った街は当時野球の人気が高く、田中少年も白球を追う一人だったが、「たまたま」出合ったサッカーで日の丸を背負う選手にまで成長する。偶然が生んだ蹴球人生、そしてこれからの夢について語ってもらった。
――サッカーを始めたきっかけは?
「通ってた小学校のサッカー少年団に兄が入ってて、ちょこちょこ見に行ってたら『お前やってみないか』と誘われて」
――当時は野球が盛んでしたよね。
「そう、野球の時代。そこはたまたまサッカーの少年団があった」
――サッカーの街だったから自然に始めた?
「いや、サッカーの街って浦和市だったのね。(当時住んでいた)隣の与野市はまだ野球で。少年団には代表に入った先輩がいたり、俺らの前の代から本格的にやってた。先生もすごく一生懸命で、俺はその先生に体育を教えてもらってて『運動神経良いね』って言われて。で、兄貴がそこの少年団に入ってやってたのを見に行ってたら『やってみろよ』って誘われて、『いや、いいですよ』って言ったけど。でもそのときは二刀流でやってたよ」
――野球もやっていたのですか?
「野球もやってた。地域対抗みたいなのやってて、その地域で『うまいから少しでも、臨時でもいいからやって』って誘われて。午前中野球やって午後サッカーやって」
――それは小学校。
「そう。でも5年ぐらいかな?少年団が強かったのもあって、本格的に東京とかに遠征したりしてサッカーに時間を割くようになって。それで結局サッカーにいった」
――サッカーのほうが面白かった。
「う~ん、どうなのかなぁ。本格的にやった分、そろそろどっちかに決めないといけなくなった時にサッカーを一生懸命やりたいと。6年生になって先生とマンツーでやったり、夏休みに学校に泊まっちゃ合宿みたいのをやったり、大会もあって。授業の途中で突然呼ばれて『おい、真二、行くぞ!』って言われて遠征に行った思い出がある。それは覚えてる」
――先生が?
「いや、監督が『東京の大会に出るから、泊りがけで、移動の時間があるから』って言って、授業を途中で抜けていった記憶が薄々と。そこまでできたし、まぁ、そのときは『サッカーがうまくなりたい』と思ってたから」
偶然に偶然が重なり、田中少年はサッカーにのめり込んでいくようになる。しかし、サッカーの神様はその少年に簡単に日の丸を背負わせるわけではなかった。中学~高校と成長するにつれ、まるで引き込まれるように「強豪チーム」と言われる場所に身を置くことになる。そこでは、当時の時代背景も映す光景が待っていた。
――中学ではサッカー部。
「部活ってさ、本格的に教えるんじゃなくて、顧問はいるけどサッカー専門の人じゃないから」
――当時は経験者が少ない。
「うん、だから結局自分達でやるような感じになって。中学のときにチームメイトが悪さして、俺がキャプテンだったのよ。そいつが先生に呼ばれてられて、サッカー部の責任だからって言われて、キャプテンの俺が怒られた。そのとき『なんで怒られなきゃいけないの?』、『人のためになにかするの嫌だな』って。『もういいや』って1回辞めようと思ったんだよ。で、1週間か2週間ぐらい行かなかったときがあって。でも、顧問の先生が説得してくれて、またやるようになったんだけどね。そこで辞めてたらもう、サッカーやってなかったなっていうのはある。で、2年と3年のとき、全国に行けなかったチームがその後の県大会で2連覇した。それで(浦和市立)南高(現・浦和南高校)の監督だった松本暁司さんから先生のほうに」
――声が掛かった。
「でも俺は絶対行きたくなかった」
――そうなんですか?
「1年は坊主だったのよ」
――あぁ、当時は多かったですよね。
「そうそう。俺が入る前の年に浦和南高校が全国で優勝してて、逆にそういう強いところには行きたくなかった。今と一緒。弱いところを強くしたいというのがあって。他のところに行きたいって思ってたけど、頭がついていかなかった。塾に行ってもサッカーのほうが面白くてさ、勉強が好きじゃないからいやいや行ってて全然頭に入ってこなくてさ。で、結局それなりのレベルのところに行ったんだけど。当時はクラブがないから、本格的にサッカーができないっていうところもあって。盛んじゃない時代だったから。プロもなかったし、そういう面でも県大会で優勝したというのはそれなりの結果を出せたのかなという感じはするよね」
――そうすると、高校に入って環境がガラッと変わった。
「変わったよ。すごく変わった。半年間、まともな練習できなかったんだよ。ボール拾いと声出しと。1年の夏のインターハイのときにたまたま遠征のメンバーに入ったけど、それまでは練習のれの字もないよ」
――時代ですね。
「時代だよ。あれは時代だね。それをやりつつ、なんで入ったのか分かんないけど、遠征では1試合も出なかった。行かせてもらって帰ってきて、そこから徐々に試合に出られるようになった」
――1年生から試合に出ていたのですか?
「1年生から出てた」
――それはすごいですね。
「1年生の選手権で2連覇して、国立競技場に4万人入った。そこからテレビも大々的にやるようになって、そこが転換期」
――サッカー漬けですか。
「ホントにもうサッカー漬け。1979年にFIFA主催で初めて日本でやるU-20のW杯があったんだけど、それを成功させるために日本も躍起になってて2年半ぐらい準備期間で、遠征に行ったり1か月合宿したり」
――その年代で代表チームをつくって育成する。
「合宿は10何回やったかな。それをやりながら国内の高校の大会に出て。だからほとんど学校に行ってない」
――学校に?
「公立の出席率の3分の1以上でギリギリだった。大学も、中大(中央大学)には行きたくなかった」
――中央大学も強いですよね。
「まあまあ強かったかな。学校から毎年必ず2人ぐらい行ってて。そのときも中大は1年が坊主でさ、大学に行ってまで坊主かと。先輩に聞いても上下関係が厳しいって」
――昔はそうですよね。
「監督の暁司さんと個人面談したときに、『第一志望はここです』って言ったら『駄目』、『第二志望はここです』って言っても『駄目。お前は中大に行け』って。で、『はい』って」
――「この選手がほしい」という大学側の希望も当然ありますよね。
「うん。だから内内で言ってたんだろうね。大学1年の夏にU-20のW杯があって、その年の暮れにA代表の合宿に呼ばれて。メンバーにはメキシコ五輪に出たベテランの選手もいて、俺最年少でびびっちゃってさ。でも昔は選手が個性的で面白かったよ」
当時の日本サッカー界にはW杯もオリンピックも遠い存在だった。その時代に世界への扉をこじ開けようとした選手時代がある。穏やかに語るその口ぶりとは裏腹に紆余曲折を経ることになる現役時代。Jリーグ開幕と共に、その人生も大きな変貌を遂げていく。
――それからずっと代表に。
「呼ばれたり呼ばれなかったりしたけど、期間的にはトータルで5年半ぐらい。社会人になってもプロじゃなかったし、引退してもサラリーマンをやろうと思って日産に入って。だからコンディションより人付き合いを大切にしてたけど3年目ぐらいかな、プロ契約制度ができて。いろいろ条件があるから悩んだよね。でも、1番好きなサッカーが仕事になったら、それほど良いことないじゃん。レギュラークラスじゃないと契約できないし、収入とかも考慮して結局プロになった」
――W杯予選とか、大きい大会の雰囲気ってどんな感じなんですか?
「すごいよ。俺の代表デビュー戦が五輪予選のマレーシア戦でさ、会場もマレーシアだったの。満員だし、グラウンドチェックに行ったとたんブーイング。ホームの国は容赦ないよ。当時はセキュリティも弱かったし。国によっては世情もあったから、選手も命がけ。生半可なプレーは通用しない」
――そういう意味でのハングリーさが。
「今は『活躍すれば良いクラブと契約できる』とか『家族のために』とか、自分の生活をいかに保つかを考える選手が多いと思う。日本の選手は技術的には世界に通用するけど、競り合いとかリアルなところは、海外に出て経験しないとレベルも上がらないっていうのはあるよね」
――引退後は指導者に。
「大塚(製薬、現・J1徳島ヴォルティス)はコーチで入ったけど、選手がほとんどアマチュアだった年に監督になって試行錯誤した。俺がやってきたレベルと指導する選手のレベルに差があって。その後、Jを目指す方針になってチームが会社から県に譲渡されて、あとは結果を出すだけの状態になった。そのときのプレッシャーが今までで1番大きかったよ。結局その年にJFL(日本フットボールリーグ)を2連覇して、順当にJ2に昇格した」
――FC CASAにはどのような経緯で。
「実家が栃木県の野木町でね、いろいろなクラブをあたってて。条件面うんぬんより、今は下のカテゴリーでも上を目指して一生懸命やっているチームで一緒に上がりたくてさ。たまたま1番近い小山市のFC CASAがそうだった。まず、ジュニアユースをチームとして確立してほしいと頼まれて、『指導者として良い勉強になるかな』と思って入ったはいいが、当時のメンバーは基本ができなくて運動神経もなかった。それでも、彼らの良いところを探って探って。例えば、身体が大きくて不器用で、考えることが得意じゃない子に『GKやってみて』って言ったら本人もやってる間に面白くなって、プレーも様になってきた。いかに個性を引き出すかだよね。誰でもストロングポイントがあるから、それに合ったポジションで力を引き出す指導が大事だなと思った。それまではいろんな失敗もあったけど、その状態から形をつくり上げたから、指導者っていろんな面で面白いなとすごく感じたね」
――タイミングが良かった。
「巡り合わせというか、クラブの状況と俺のタイミングが良かったんだね」
――トップチームは何年指揮しましたか?
「丸々見たのは2年だね」
――今年はまたジュニアユースですね。
「もしカテゴリーが昇格できたらトップチームも刺激できるし、クラブとしても面白いと思ってるよ。サッカーだけじゃないけど、簡単なことをいかに正確に速くやるかがすごく大事。選手はみんな〝うまいことやりたい〟って思ってるけど、俺らがうまいと思うのは状況判断。そこに合ったプレーを選択して、1番基本的な『止める・蹴る』やポジションの取り方を伝えたい。サッカー選手を目指してる子たちには、勝って楽しんでほしい。負けてヘラヘラするんじゃなくて、勝たないと味わえない楽しさや嬉しさを、大会で優勝したりして経験してほしいね」
――今後の夢は。
「FC CASAが小山市にあることで地域を活性化すること。Jリーグ加入という価値を付けないと注目されないし、そこまでできる力が付くように手助けしたい。小さくてもいいからグラウンドができてスタジアムができて。スポーツで人が集まる環境が整えば、みんなが散歩したりジョギングしたりボールを蹴ったりできる。そういう景色が小山市に広がって、試合のときに『CASAの試合やるぞ』ってクラブが生活の一部になれるように、なんとかできることはやりたいね。おじいちゃんになる前に」
「基本を大切にする」
今回のインタビュー中、物静かな口調の中にも確固たる信念として徹底した基本・基礎へのこだわりを窺うことができた。「基本を大切にしてこそ高いレベルでプレーすることができる」。その信念を貫いてきた。往年のプレースタイルと人柄ににじみ出ているもの。それが、田中真二さんのとてつもない魅力だと感じることができた。
日本代表としてW杯・オリンピック予選などを戦い抜けてきた名手は、自分のルーツを持つ街で静かに自らの経験と想いを次の世代へ伝え続けている。大きなプレッシャーの中で戦ってきた田中真二さんが伝える言葉、それは指導される子どもたちにとって将来の宝になるものがあるはずだ。